宇津救命丸が、四百年あまり
変わらずに守ってきたこと。
宇津救命丸は、一五九七年に栃木県高根沢町で生まれ、それから四百年あまり、家族の健康のそばにありました。当主が代を重ね、戦争や震災を越えて事業の姿は何度も変わりましたが、「家族の心のそばに立つ」という一点だけは、変わっていません。
宇津家には、創業のころから「施薬」という考えがありました。薬を売るより先に、困っている人に薬を配る。正規の医療がほとんど届かない土地で、救命丸は文字どおり命を救う薬でした。
施薬が向けられたのは、体だけではありません。宇津家は薬師堂を建立し、人々はそこへ手を合わせに来ました。薬が体をいたわり、祈りの場が心を支える。体と心の健康の両方があって、人ははじめて安心できます。体と心の、両方の健康を願う。それが、宇津家の考える施薬の精神でした。

やがて救命丸は一橋家の御用達となり、丈夫な世継ぎを育てるために用いられたと伝わります。子どもの薬としての性格は、このあたりに始まったのかもしれません。明治以降は「夜泣き」「疳の虫(かんのむし)」の薬として、子育てのそばに置かれるようになりました。

「疳の虫」は、子どものなかにある、まだ整っていない何かを指す、古い言葉です。夜泣きも、ひきつけも、急な癇癪も、昔の人はみな疳の虫のしわざと呼びました。だれを責めるでもなく、受けとめ、暮らしのなかで対処していく。疳の虫は敵ではなく、一緒に暮らすうちにいずれ折り合いがつき、整っていくもの。そういう前提でできた言葉でした。
この十年ほどで、子どもをとりまく言葉は変わってきました。発達障害、グレーゾーン、HSC。診断がつくこともあれば、つかないこともあります。眠れない子、急に泣き出す子、癇癪を起こす子と、その隣で静かに消耗していく親。現当主自身も、わが子の情動の揺れと向き合いながら、昔の人が持っていた「観察する」「折り合う」「対処する」という視座が、いまの子育てから少しずつ失われていることに気づきました。
時代は進みました。医療も栄養も衛生も整い、体の健康は、多くの人にとって当たり前のものになりました。宇津家が古くから案じてきた「体」は、社会全体でずいぶん守られるようになったのです。
では、心はどうでしょうか。
子どもの心の揺れは、四百年前と変わりません。そしてそれは、子どもだけのものでもありません。大人のなかにも疳の虫はいて、生涯にわたって付き合っていくものです。便利で忙しい世の中では、心をていねいに見る時間のほうが、むしろ減っているのかもしれません。
これからの宇津救命丸は、施薬の精神の重心を、心のほうへ移していきます。
子どもの心には、揺れを「かんのむし君」と名づけ、責めずに親子で一緒に整えていく見立てを。大人の心には、古くから受け継いできた大人のための処方を。親が自分の気持ちを整えられたとき、その落ち着きは、となりの子どもにも静かに伝わっていきます。
そして安心を、家族から地域へ、社会へと広げていきます。かつて薬師堂が地域に開かれ、だれもが手を合わせに来られたように、これからも家族のそばで、地域のなかで、心の安心を支える場でありたいと考えています。
宇津救命丸にとって、薬は考えのいちばん底に、道具として静かに置かれているものです。本当に届けたいのは、その手前にある、揺れをどう見立て、どう整え、どう暮らすかという、長い時間が育ててきた知恵のほうです。
薬をつくる会社から、家族の心のそばに立つ会社へ。
施薬の精神を次の世代へ手渡しながら、
宇津救命丸はその社会づくりに歩んでいきます。