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宇津救命丸歴史探訪シリーズ 第3回

2024年03月07日

私立宇津学校(博愛館)

宇津救命丸を創業した宇津家では、江戸時代末期から明治の初期にかけ、地元高根沢村で私塾博愛館(後の宇津学校)を開いて勉学を教えていました。当時、私立の学校は非常に珍しかったようです。

宇津学校の前身 博愛館

博愛館は、安政3年(1856年)、14代宇津権右衛門(重善)が、妹婿養子の宇津三省(後に広之進と改名)と共に寺子屋として開校しました。

明治維新の新学制が施行された後、表面は中止した形になっていましたが、子弟父兄が離れず、そのため小学校設立創世記に、宇津家の当主は私立小学校の開業願いを提出しました。 しかし、公立小学校の設立も予測できない時期であったため、その設置は認められませんでした。

当時生活に困窮した子弟を家業に雇い入れていましたが、貧困のため就学できない彼らのために、明治八年にふたたび私立小学校を開業したいと願い出ました。

宇津学校の設立

その願いは聞き届けられ、明治9年2月6日、博愛館は宇津学校として再開校しました。

場所は、居住区から近い現在の宇津薬師堂の反対側にあったようで、教師は宇津廣之進があたり、のちに長男の誠四郎も教員となりました。当時の生徒数は次の通りで、近隣はもちろん、遠方より寄宿する学生もいました。学生の名簿には宇津家の子弟の名前も複数載っています。

 年度教員数役員数生徒数
 明治911151025
 明治1011171027
 明治111123831
当時の教員数と生徒数

授業料については、学校概則では1カ月金15銭と定めていましたが、貧困のため授業料を納めることができない者は、その半額あるいは無料としていました。

卒業證

宇津学校の閉校

明治17年、地元に町立の上高根沢小学校が設立され、合同で運動会が開かれたようです。

小学生体操の図

小学生体操の図  国立教育製作所より

その後、身内が他界したこともあり、役目は終了したとして、宇津学校は上高根沢小学校に併合されました。そして、宇津廣之進は上高根沢小学校の初代校長になりました。

正式な廃校は明治38年のことだと思われます。

宇津廣之進

宇津廣之進は旧姓鈴木三省で、常陸国(ひたちのくに 現在の茨城県北東部)に生まれ、水戸で漢学・医術を学んだ後、20歳で高根沢村の宇津家に身を寄せました。

その後、宇津家の元で医師を開業し、14代宇津重善の妹の婿になって宇津三省となります。安政元年、27歳にして京都に赴いて医術を研き、30歳の時に宇津家に戻りました。

安政3年、医学の道を捨て、あえて勉学を教える道を選び、当主の宇津権右衛門とともに私塾博愛館を設立しました。その後教員の資格を取り、宇津廣之進と名乗りました。

大正11年、廣之進を敬愛する数十人の世話人が、宇津学校の記念碑建立の協議を行ない、同年3月12日に薬師堂内に記念碑を建て盛大に除幕式が盛大に行われました。

参考資料

当社には宇津学校について詳しく記載された資料がなく、東京国立学芸大学付属図書館内に所蔵されていた記録と、高根沢町町史を参考にし、創設者宇津廣之進のひ孫の方から話を伺いました。 なお、東京国立学芸大学付属図書館内に所蔵されていた書物は100ページもの量があり、内容は県に対する開校届、宇津廣之進の略歴、給与、生徒名簿、年次報告、試験報告、などが詳細に記録されていました。

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