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2024年12月02日
400年続く「夜泣き」「かんむし(子どものストレスによるギャン泣きやイライラ)」など子育てのお悩み解決のお薬「宇津救命丸」
宇津救命丸を創業した宇津家では、江戸時代末期から明治の初期にかけ、地元高根沢村で私塾博愛館(後の宇津学校)を開いて勉学を教えていました。当時、私立の学校は非常に珍しかったようです。
博愛館は、安政3年(1856年)、14代宇津権右衛門(重善)が、妹婿養子の宇津三省(後に広之進と改名)と共に寺子屋として開校しました。
明治維新の新学制が施行された後、表面は中止した形になっていましたが、子弟父兄が離れず、そのため小学校設立創世記に、宇津家の当主は私立小学校の開業願いを提出しました。 しかし、公立小学校の設立も予測できない時期であったため、その設置は認められませんでした。
当時生活に困窮した子弟を家業に雇い入れていましたが、貧困のため就学できない彼らのために、明治八年にふたたび私立小学校を開業したいと願い出ました。
その願いは聞き届けられ、明治9年2月6日、博愛館は宇津学校として再開校しました。
場所は、居住区から近い現在の宇津薬師堂の反対側にあったようで、教師は宇津廣之進があたり、のちに長男の誠四郎も教員となりました。当時の生徒数は次の通りで、近隣はもちろん、遠方より寄宿する学生もいました。学生の名簿には宇津家の子弟の名前も複数載っています。
年度 | 教員数 | 役員数 | 生徒数 | |||
男 | 女 | 計 | ||||
明治 | 9 | 1 | 1 | 15 | 10 | 25 |
明治 | 10 | 1 | 1 | 17 | 10 | 27 |
明治 | 11 | 1 | 1 | 23 | 8 | 31 |
授業料については、学校概則では1カ月金15銭と定めていましたが、貧困のため授業料を納めることができない者は、その半額あるいは無料としていました。
明治17年、地元に町立の上高根沢小学校が設立され、合同で運動会が開かれたようです。
小学生体操の図 国立教育製作所より
その後、身内が他界したこともあり、役目は終了したとして、宇津学校は上高根沢小学校に併合されました。そして、宇津廣之進は上高根沢小学校の初代校長になりました。
正式な廃校は明治38年のことだと思われます。
宇津廣之進は旧姓鈴木三省で、常陸国(ひたちのくに 現在の茨城県北東部)に生まれ、水戸で漢学・医術を学んだ後、20歳で高根沢村の宇津家に身を寄せました。
その後、宇津家の元で医師を開業し、14代宇津重善の妹の婿になって宇津三省となります。安政元年、27歳にして京都に赴いて医術を研き、30歳の時に宇津家に戻りました。
安政3年、医学の道を捨て、あえて勉学を教える道を選び、当主の宇津権右衛門とともに私塾博愛館を設立しました。その後教員の資格を取り、宇津廣之進と名乗りました。
大正11年、廣之進を敬愛する数十人の世話人が、宇津学校の記念碑建立の協議を行ない、同年3月12日に薬師堂内に記念碑を建て盛大に除幕式が盛大に行われました。
当社には宇津学校について詳しく記載された資料がなく、東京国立学芸大学付属図書館内に所蔵されていた記録と、高根沢町町史を参考にし、創設者宇津廣之進のひ孫の方から話を伺いました。 なお、東京国立学芸大学付属図書館内に所蔵されていた書物は100ページもの量があり、内容は県に対する開校届、宇津廣之進の略歴、給与、生徒名簿、年次報告、試験報告、などが詳細に記録されていました。
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